書いてみたら?

初対面の人に小説書いてるっていうと、
たいがい「すごいですね」って言われる。


で相手にもよるが俺、
「何がですか?」って聞く。
するとたいがい
「そうやって表現をできることが」
って言われる。


で相手にもよるが俺、
「誰でも書けますよ」って言う。
するとたいがい
「いや、僕にはできないです」
って言われる。





……なんか言葉面だけ見ると
すげー鬱陶しいヤツですが。
一応ね、
俺ん中で「表現」ってのの理屈があって。






まずもって一般的に「表現物」って
カテゴライズされるのは、
例えば小説もそうだが、
絵だの音楽だのダンスだの、
そーゆーの。
何らかのものを表現と銘打って
形にして金などの対価を受け取るもの。
つまり冒頭で挙げた「すごい」ってのは、
形にしたもので対価を得ている
ってことに対して言われているのではないかと。





ですがね、
俺の中での表現ってのは
なんか前にも言った気がするが、
自分以外の対象に対して
何かを働きかけることそれ自体を指す。
つまり部屋から出て誰かにあった瞬間、
自分の言動ひいては存在自体が表現なんですわ。
例えば事務作業をしていてペンがなかったので、
向かいに座っている同僚に
「ペン貸して」
って言う。
それ自体が表現なんです。





「ペン貸して」って発言をするときの
口調、タイミング、目を見て言うとか見ないとか、
それで相手の印象つまり反応は変わってくる。(A)
さらに言うならその相手と仲がいいかどうか、
以前にも借りたことがあるとかないとか、
その発言までの対象との関係性でも変わってくる。(B)
そんでもって相手が忙しいかどうか、
機嫌がいいかどうかとかでも変わってくる。(C)





で、上記の例を小説にあてはめると、
Aは単語構成や場面。
Bは文脈。
Cは読者乱数。
大雑把ではあるがそんな感じで例えられるだろう。
音楽、ここではライブにあてはめてみると、
Aは曲と演奏。
Bは曲順。
Cは客層。





「誰でも書けますよ」と言うとき、
暗に「書けなきゃ駄目ですよ」と思ってる。
なぜなら表現とは自分が他者と関わることだからです。
それが上手く出来ないってことは、
人間関係が上手く作れないってことじゃないですか。





自分のひとつの動作で相手は細かく反応を示すってのを
理解せずに安易な言動を繰り返す。
それで誰が好きだとか嫌いだとか、
安易に周りを評価する。
んでもって居心地が良いだの悪いだの、
自分を軸に空間を評価する。





それが良いとか悪いとか言う気はないが、
いちいち人の愚痴だの悩みだのを見たり聞いたりしてると、
自分の言動が相手の反応を、
自分の周りの環境を作っているということを
少しくらい理解すれば楽になるのに、
とは思います。
もちろん自分の言動以前の問題もあるけども、
ちゃんと考えてる人はそーゆーことに愚痴も悩みも言わねえよ。




えーそれで、だ。
数ある表現方法の中でも小説ってのは
比較的誰でも手をつけやすいモノだと思うのです。
理由としては、
・日本においては九割以上の人間が読み書きをできる。
・即興性をそれほど求められない→思考錯誤しながら構成できる。
・PCとか使えば金もかからず形にしやすい。
などが挙げられますが。




んでね。
日頃人間関係が思うようにいかないって人は、
ぜひとも小説を書いてみて
誰かに読ませて見てはいかが?
なんて思うワケだ。





自分の伝えたいことをまとめて、
思考錯誤しながら形にして、
実際誰かにちゃんと伝わるのかどうか。
例えばすげー面白い話思いついて、
それを誰かに伝えて、
実際相手に面白がってもらえるのか。
それで相手が面白くないと言うのなら、
どうして伝わらなかったのか。
どうすれば伝わるのか。
そういう思考作業はほら、
フツーの会話と何が違いますか?




そーゆーね、
表現の何たるかを怠けずちゃんと考えてりゃね、
フツーに生きてる分には
人間関係に問題なんぞ起こりゃしねーでしょうよ。





ということで提唱します。
小説書いてみろ、と。





一応追記しておくと、
小説書けないとだめ
みたいなことは全然なくて。
あくまで思考錯誤しやすい手段ってことで
挙げてるだけですので。





それと小説をかなり安い感じで書いてきましたが、
実際のトコそこいらの人に書けるようなモンを
書いてはいないですし、
本屋に売り出してある小説はやっぱり「すごいですね」。
そうじゃないのも最近よく見かけますが。
誰でも書けるからこそ難しく、
誰にも書けないから対価をもらえるのが表現物。


そこんとこは一応ね。
小説と商品の違いはね。
はっきりさせとかないとね。