そして

四袋目のおにぎりせんべー食いながら、
書きながらかなり気になってる
自分の癖の話を。



文章ってのは
複数の分が連なって脈を為すもの。
で、
その文と文の連なりってのに
ものすごい気を遣ってしまう。




例えば、
森に行ってクワガタを捕まえた
ってのを書くとき、
『太郎は森に行った。
クワガタを捕まえた』
っちゅう最短の文章で大体は伝わると思う。
こいつを例文Aとしましょう。




しかしながら、
太郎が森に行ってからクワガタを見つけて
その手に取るまでには、
時間の経過とその中での出来事が
そりゃもう無限に切り出せるくらいある。
なかなか見つからず五時間くらい探した、とか
途中で草に足引っ掛けて転んで骨折した、とか
ちょうどそのころ太郎の恋人が独房で息を引き取った、とかね。
例文Aではそういうのが空白になってるので、
読んだ人は自分の傾向性に従ってその空白を埋めることになる。





もしクワガタを取りに行ってマムシにカツアゲされた経験のある方は
マムシに気をつけながらクワガタを探した』
って文で埋めるかもしれない。
あるいは、
この世に存在はしないでしょうがクワガタが嫌いだなんて方は、
『気が重く何度も引き返そうとした』
とかいう文を入れるかもしれない。





この空白を埋める無数の傾向性を操作するのが
著者の仕事。
そのためには前後の文脈が重要になる。
『太郎は三度の飯よりクワガタが好き』
なんて文を例文Aの前に出しておけば
少なくとも『引き返そうとした』ってな傾向の文は
なかなか差し込みづらくなるはずだ。
それでも差し込んでくるようなアグレッシブな読者を想定するなら
『引き返そうだなんて微塵も思わない』
とか書いておけば防げる。




しかし人の想像力は無限。
そこを防いだところで
『突然ケータイに親が死にそうとメールが入った』
『だから引き返すことにした』
なんてアッパーでガード開いてストレートで打ち抜く
みたいな攻撃も考えられる。
そんなことを考えだすと、
自分の中の思い通りの時系列を
そのまま読者と共有することは不可能に思えてくる。
もちろんそういうアグレッシブ読者はごく少数なんだろうが、




……なんかそれが気になってしまう。




そんで癖の話に戻るが、
こちらからの手段として、
接続詞をやたらと使いたがるところがある。
文と文のあいだをこちらで繋ぐことによって、
アグレさんが空白に入りこまないようにしたいんだろう。
俺の本能的臆病性に基づく癖ってとこですかね。
で、
その中でもよう使いたがるのが、




「そして」




ってやつ。
勢い任せに書いている時は
読み返してみればひとつの段落で三、四回使ってたりする。
そこまで行くならいっそ全部の文の頭に「そして」ってつけりゃ
少しは面白いんでしょうが、
そうなると作品全体のバランスが大きく変わってしまうため
なかなかできない。
んでその変わったあとのバランスに興味がないので
やる気にもならない。





特に現実の時間と作品内の時間が同調してるときに
よく起きる現象ですが、
それが俺の癖。
でも同調してるときのほうが文の連なりが良く
書いてても読みなおしても面白いので、
まあいいか、ってな話でね。
あとから「そして」カット作業すりゃあいい。
長々と書いておいてそんな結論で。




今、
その作業の真っ最中。