切り取り 〜物語の意味〜


全ての物事は言葉にした時点で
全て別のものになっている。
例えば「暑い」と言葉にしたとき、
今自分が体験している暑さが
寸分違わず相手に経験されることはなく、
相手がこれまで培ってきた
暑いって状態に根差してイメージされることになる。






じゃあそのイメージを
自分の体験している暑さに
一致させることは可能なのか。






思うに、
絶対的な一致はないにしても、
漸近させることは可能である。







もし自分が暑がりであることを知っている相手なら、
相手の「暑い」だけではなく
それに自分の暑がりっぷりを加味したイメージを
抱いてくれるだろう。






その「暑がりであることを知っている」というのは
言い換えれば「文脈」だ。
言葉によって何かを伝えようとするとき、
この文脈が何より重要になってくるということを
少しでも真面目に何かを
相手に伝えようとしたことがある人なら
フツーに分かることでしょう。






ワンピースで俺が好きな場面のひとつ。
かなり序盤の方なんですが、
ナミがアーロンに散々な目にあわされて
ルフィに助けを求めるシーンがある。
冒頭の写真のナミの一言、
「助けて」。







「助けて」なんて言葉はどこでも耳にする。
けどマンガだの小説だの映画だの創作物において、
この「助けて」以上に重みのある「助けて」を
俺は知らない。
その重みはまさに
ナミの健気な生きざまによるものに他ならない。
その生きざまを知っているからこそ
その助けてに込められた言霊をイメージすることができる。








名言ってのは数多くありますが、
そーゆーのが基本的に嫌い。
けっこー前にニーチェの言葉だか何だか知らんが
バカみたいな本がえらい売れたらしい。








アレはどーなんですかね。
ちょろっと立ち読みして
ありえねーと思って買わなかったんだけど、
みなさんアレを読んでどうなさるんですかね。
一応有名な哲学家ってことで
本から切り取ったダイジェストで
ニーチェを知ったかぶるような感じ?








それってアホじゃない?







文脈がないじゃん。
その名言とやらがどういう経緯で発せられたか。
それを知らなければ名言の意味は
自分の言語体系からイメージするほかない。
それはつまり「ニーチェの言葉」ではなく
その「読者の言葉」になるでしょ?
んでもって総じてそれは
自分に都合のいい意味に置き換えられるもんで。
それがムカつくから
ツァラトゥストラみたいな本を書いたんじゃねーかと
とりあえずニーチェの本読み漁った結果
イメージしてる俺。
だから名言集とかに
基本的に意味を見いだせない。
むしろ真実を見失わせる害悪だと思う面もある。
ほら、
予告編で面白そうだと思って観た映画が
すげー裏切られた感じ、
よくあるでしょ?
そーゆーことですよ。









まー
言葉の切り取りは危険だと言いたいわけですが、
話を戻すと文脈によってそれは回避される。
冒頭の写真をワンピース読んだことない人が見ても
「あら、おなごが泣いとる」
でしょうけど、
読んだことがある人は
自然と涙が出てくる……はず。
その辺は性格によるけども、
少なくとも「助けて」の重みは
文脈があることによって
この写真の「切り取り」で伝わるのよ。








じゃー自分が今持っている感覚を
誰かに伝えようとするとき。
それが文脈を作れない距離にいる相手だったとき。
どうするかっていうと、
「物語」なわけだ。








友情の大切さ、
努力の素晴らしさ、
愛情の美しさ、
裏切りの悲しさ、
殺し合いの凄まじさ……。
時間と経験を共有できない距離にいる
不特定多数に何かを伝えようとするとき、
人は物語を通じて
その距離を殺し時間と経験を共有する。







それが物語の意味だ。
フィクションであれ、
ノンフィクションであれ。
少なくともワタクシRitskuaこの野郎は
そういう理由で物語を綴っております。








そこで考えるのは
商品としての物語についてだけど、
これまた長い話なので別の機会に。
とりあえずそれを逆手に
切り取り前提でやってみたのが
エヴァネだったりする。








さて、
読む人いるかどうかも知らんのに
ダラダラうぜー話しましたが、
最後に。







「物語は死んだ」
近頃そんな言葉をよく聞きます。
世間的に死のうが生きようが
知ったこっちゃないけども、
俺もわりとそう思います。







……それってどういうことでしょうね。