エヴァネと桃色のあとがき

Evanescent Aliceは、
先に出した『沈黙の糸』の続編です。




学生の頃、
人の死ぬ瞬間に立ち会った。
深夜の交通事故で、
ちょうどバイトを終えて車を走らせてたら、
道のど真ん中に血塗れで倒れているおじさんと、
道の脇に暴走族仕様のバイクを止めて呆然としている青年、
そして傍らで「助けてください」と泣き叫ぶおじさんの奥さん。
ちょうど通りかかった時、
おじさんは烈しく痙攣していた。
救急車を呼ぼうと車を止めて戻った時、
おじさんはもう動かなかった。
俺も含めた野次馬が言葉なく立ち尽くす静寂の中で、
おばさんの嗚咽だけが聞こえる。
次の日、
その場所には花が置かれていた。





見たことがある人は分かると思うが、
人の死、
特に某かの強制力によって命が奪われる瞬間、
そこには他に比べるもののない騒々しさがある。
そして命が途切れた瞬間、
それまでの騒がしさを反転させたような静けさが訪れる。
まるで音と共に息づいていた命が嘘だったかのような
完璧な静けさだ。





沈黙の糸は散る命の騒々しさを描いてるけど、
アレを完成させてみんなに読んでもらって、
もうちょっと書きてーなって思った。
つまり命が散ったあとの静寂。
あの夜動かないおじさんを前に感じた虚しさを。





なんで小説じゃなくて写真にしたかってえと、
そりゃあこのあと書きます。
で、桃色マンホールな。





これまでのウチの作品とカラーが違いすぎて
創るのにも並べるのにも散々苦労した揚句
ほとんど売れませんでしたが、
まーそれはそれで面白かったこの作品。
以前「バランスそのものを拒否した」
とかなんとか書いた記憶があるけども、
言い方を変えれば、
EYES OF THE MARKっちゅう形態のなかで
色々作品を創ってくうちに産まれたバランス感覚を、
いっぺんブチ壊してみようってところから
「アラキボデー」ってラインが出てきた。
さらに言うなら、
アラキスとの日常的なやりとりにおける「空気」。
俺とアラキスがアクセル踏みまくりながら話をして、
周りの人間が付いてこれずに
何が面白いんだろう、てな感じでぽかんとしてる。
それがすげー気持ち良くて、
その空気をそのまま作品にしてみたらどうなるかってのもあった。





どうなったかは作品読んでみた人の反応待ちですが、
売れなかったってのもその反応の一つで、
なるほどね、ってわけです俺にとっては。
そりゃ読んでもらえた方が良いに決まってるけどさ。





とにもかくにもね、
カッコつけてんじゃねえよと。
自分に対してね。





で、
エヴァネっちゅう写真と桃色の小説。
これらを通じたテーマがあってね。
それが、
「自分の『小説』って枠を壊す」
ことだった。
エヴァネで外側から、
桃色で内側からね。





最近考えていることで、
「必然性」ってのがある。
空気を創るにあたって必要不可欠なものなんだけど。
分かりやすいように極端な例で、
こーゆー会話があったとしよう。





A1「最近調子悪いから、今日C病院に行こうと思うんだ」
B1「あ、C病院に私の従妹勤めてるよ」
A2「そうなの?」
B2「うん。調子悪いの?」
A3「なんかずっと頭痛い」
B3「そりゃ良くないね。お大事に」




……はい、
このA1に対するB1の発言ですが、
必然性があるでしょうか。
あとに続く文脈から考えれば、
どう見てもねーよな。
こーゆーのが必然性。





んで、
俺においての小説ってモンに
どれだけの必然性があるのか。
そもそもその必然性は
俺が勝手に思い込んでるだけのモンじゃないか?
無意識に架空の必然性に固執
空気の停滞に陥っているんじゃないか?





……いっぺんブチ壊してみますか。





てな感じで設定したテーマ。
どうブチ壊してるのかは
作品を手にとってもらい、
ご自分の目で確かめていただければと。





んで何でこのタイミングかってのは、
次回発表のASTRAに関わるんですな。
こいつを書き終える前に
自分の既存の枠を組み直して、
自分の必然性を再確認しておきたかったの。
ただ桜と鏡花っちゅう素材を組み合わせただけの
つまんない作品にならんように。





と、
まあそんなことであとがきでした。
桃色のほうはふざけてるようで実際ふざけてるんですが、
実はもっと深遠なる理屈があったりして、
ここでは全然言い足りてないんで、
また機会があれば追加あとがきがあるかも。
ないかも。