沈黙のあとがき

記憶に在る限りで
最初はサカキバラの事件。
最近では秋葉原のカトーあたりか。


何の罪もない誰かが、
何の意味もなく犠牲になった。


メディアは一斉に事件をクローズアップし、
犠牲になった方々や遺族の方々を憐れんだ。
事件の背景や犯人の過去を洗い出しては報道し、
世間に無形の闇を定着させた。
人々はそれをそれぞれに解釈し、
事件はそれら無数の解釈をもって概念となる。





その概念と事実とのギャップに違和感を覚えた。





「人は人を殺すことができる」


例えば人の多い駅にいて、
目の前を歩いている人(A)を殺すとしよう。
何の警戒心もない背中。
きちんと準備さえしていれば
おそらくあっさりと殺すことができるだろう。
でも実際に殺そうとはまず思わない。


何故かと言えば、
ガキの頃から教え込まれた道徳概念と
予測されるその行動によって被る自身へのペナルティ。
それらを超克する意味や価値を、
「殺すこと」に見いだせないからだ。


ではそこに条件を追加。
Aが自分の親を殺して逃亡してた犯人だとすると?
そこで「殺すこと」には
「敵を討つ」という意味、価値が付与される。
人によっては実際に殺してしまうかもしれない。


ではさらに条件追加。
Aが世界的大量殺人犯で、
もはやDEADorALIVEで国から懸賞金が出てる。
殺せばもちろん罪には問われずむしろ英雄。
これからも殺されかねないまだ見ぬ大勢の人を救うことができる。
……とすると?





まー今の日本じゃ想像しにくいかもしれんが、
ちょっとこの国を外れて
違う土地に行ってみれば違う結果が想像できるかと思う。





で、何が言いたいのかというと、
「人を殺してはいけない」という道義は
決して普遍的なものではないという
当たり前のことだったりする。
そこにそれ以上に重んずるべき意味と価値があれば、
あるいはそもそも「殺しちゃだめ」っていう道義に
意味と価値が見出せなければ
人が人を殺すという行動は起きかねないわけだ。


ところが先にあげた事件の概念においては、
事件をあくまで世間に流布している道義的方向からしか捉えていない。
「人を殺してはいけない」という前提のもとで概念は作られている。
「起きかねない」ことが「起きてはいけない」こととして
延々と語られ続けるばかりである。





前提。
以前熱心なキリスト教徒の方と話をしたとき、
その人はあくまで
「世界は神が創った」
ことを前提として全ての物事を語っていた。
当時ニーチェかぶれだった馬鹿な俺にとって
非常に有意義な話をさせていただいた。
前提が違えばこうも解釈が違うんだってな。





つまり、だ。
世の中のあらゆる概念ってのは、
あくまである事実をある前提において解釈したモノに過ぎない。
そして概念と事実は主体が存在する限り絶対に一致しない。


どれほど倫理を振りかざしたところで、
「人は人を殺す事ができる」
この事実には絶対に干渉できない。
それでもなお概念と事実を近づけようとするのならば、
それは殺人者の側からの概念を「体験」するべきだろう。
そんなきっかけで
この「沈黙の糸」を物語として書くことを決めた。





あいにく育ちも学歴もそんなにお偉くないですが、
Stilus virum arguit.
馬鹿は馬鹿なりに必死に考えた結果の作品です。





一応このあと
「あの大人しかった白神がどうしてチンピラみたいになったか」、
「物語の底に在る黒耀島皆殺し事件」について
形にしようかと思っておりますが、
しないかもしれん。
読者様のごそーぞーにお任せしたほうがいいのかな、と。






……んで、後書きになってたかどーかは知らんが。


おかげさまで初版はキレが悪いですが残り一冊になりやした。
読んでくださった方、ありがとうございます。
貴方様の心にワダカマリや不快感を残せたら幸いです。
共感や高揚感は……まあ、ウチじゃ何やっても責任はとりませんので。
あー、
ちなみに白神のブランド「A.S.O.M」ってのは、
「AGITATED SCREAMS 0F MAGG0T」
の頭文字っす。
それでは我らがイカレ葉月さんの言葉で締めさせていただきます。






「君が僕を狂人と呼ぼうと、いくら善を叫ぼうと
――未来は何も変わらない」